皆さん、こんにちは!バーバーショップハーモニーの魅力的な歴史を辿る旅、第2回へようこそ。
前回は、バーバーショップという名前が生まれる遥か昔に蒔かれたハーモニーの種と、その豊かな土壌について一気に古代から近代まで紐解きました。第2回となる今回は、いよいよ20世紀初頭に突入し、バーバーショップカルテットが爆発的に広がり、その「黄金期」を迎える時代、そしてその後の変遷を見ていきます。テクノロジーの進化、新しいエンターテイメントの登場、そして音楽スタイルの変化が、この魅力的なハーモニーの世界にどのような影響を与えたのでしょうか?
※ 本記事は David Krause, David Wright 両氏によって執筆された History of Barbershop という資料を抜粋・再構成して作成されています(原資料)
前回の終わりで少し触れたトーマス・エジソンの発明が、この時代の音楽に大きな変化をもたらしました。音楽は「その場で演奏されるもの」だけでなく、「録音されたものをいつでも聴けるもの」へと変わっていきました。
この録音文化は男性歌唱のムーブメントを加速させました。ヘイデン・カルテット (Haydn Quartet)、ピアレス・カルテット (Peerless Quartet)、アメリカン・カルテット (American Quartet)といった録音専門のカルテットが登場し、その名前は多くの家庭で知られるほどになりました。
これらの録音専門グループは、ライブではコンサート形式で、フォーマルな服装で歌うことが多かったそうです。これは、現代のカルテットがフォーマルな衣装でパフォーマンスするスタイルに影響を与えたのかもしれません。
1890年頃になると、下火になりつつあったミンストレル・ショーから派生して、ボードビルという新しい大衆向けエンターテイメントが登場します。これは家族全員で楽しめる、プロフェッショナルで質の高い演芸ショーでした。全国に大規模なシアターチェーンが生まれ、W.C.フィールズ(写真)やウィル・ロジャース、アル・ジョルソンといった、後の大スターたちもここから羽ばたいていきました。
このボードビルのプログラムにおいて、カルテット歌唱は定番の一要素だったのです。観客はプロフェッショナルなカルテットの歌唱を、聴くだけでなく「見る」ことができるようになりました。アフリカ系アメリカ人のボードビル伝統も豊かで、黒人カルテットや評論家も活躍していました。前述のトム・ザ・タトラーも、黒人音楽評論家の一人でした。
この時代、ポピュラー音楽の世界ではラグタイムという新しい波が押し寄せていました。これは主にアフリカ系アメリカ人の音楽家から生まれ、その特徴的なリズム(シンコペーション)は当初「粗野で下品だ」とまで言われ、一部の音楽家組合では演奏が禁じられたほどです。しかし、人々はその楽しさに夢中になり、やがてラグタイムは一大ブームとなります。街角のピアノからは新しいリズムが溢れ出し、若者たちは熱狂しました。
そして、ユダヤ系ロシア移民のアーヴィング・バーリンという天才が登場します。彼は音楽の正規教育は受けていませんでしたが、驚異的な才能で次々とヒット曲を生み出しました。1911年の「Alexander's Ragtime Band」は、必ずしも純粋なラグタイムではありませんでしたが、この言葉と音楽スタイルを正当化し、大衆に広く受け入れさせるきっかけとなりました。バーリンはラグタイムの要素を巧みに自身の楽曲に取り入れ、後のバーバーショップにとって重要なレパートリーとなる曲も多数作曲しました。
録音やボードビルでプロのカルテットの歌声に触発され、1900年代初頭は「男性カルテットの時代」と呼べるほど、数千ものアマチュアカルテットが存在しました。
ロッジ、教会、農場団体、学生組織、企業、警察署や消防署、さらには野球チームまで、様々な団体がカルテットを後援していました。
家族で歌うカルテットも多く、中にはプロになるグループもいました。
組織化されていない近所や家族のカルテットも普通にあり、街角で少年たちがカルテットを組んで歌う姿も見られました。コメディアンのジョージ・バーンズも8歳の頃にニューヨークのロウアー・イースト・サイドで「ピーウィー・カルテット」の一員として歌っていたそうです。
彼らの多くは、楽譜に頼らず、耳で聴き取ったメロディに即興でハーモニーをつけて歌う「ウッドシェディング」 という手法で練習していました。この、耳でハーモニーを捉え、覚えて、教える能力は、当時のフォークアート(民衆芸術)のようなものだったようです。
1920年代になると、バーバーショップハーモニーに関心を持つ重要な人物が登場します。音楽学者であり、「チューン・ディテクティブ(メロディ探偵)」 とも呼ばれたシグマンド・スパエスです。彼はアメリカのポピュラー音楽史に関する多くの著作があり、特にバーバーショップハーモニーに強い関心を持っていました。
1925年に出版された彼の著書『Barber Shop Ballads』は、クローズハーモニー(音が密集したハーモニー)をどのように歌うべきかを解説し、多くの古い歌の4パートアレンジ譜を提供しました。これは、当時のカルテットにとって、歌い方を学ぶためのマニュアルのような役割を果たしました。また、スパエスはこの本の中で、今日私たちが使っている「テナー」「リード」「バリトン」「バス」というパート名称を整理・定着させました。彼は、ニューヨーク市が主催していた公園でのバーバーショップカルテットコンテストについても言及しており、これは後にSPEBSQSA(今日のバーバーショップハーモニー協会の前身団体)が開催するコンテスト形式の先駆けとなった可能性があります。
そしてなんと、この BarberShop Ballads (※外部リンク)は現在でも読むことができます!
1920年代には、ポピュラー音楽のリズムやハーモニーがさらに洗練されました。ラグタイムの影響が頂点に達し、それまでのバラードに比べて、より活気のあるアップテンポの曲が多数生まれました。これらの曲は、耳でのハモリには概ね適していましたが、使われるコードの種類はさらに豊かになりました。
しかし、この頃から、これまでのドミナントセブンスを中心としたハーモニーとは異なり、マイナーセブンス、メジャーシックス、メジャーセブンスといった、耳でのハモリが難しくなるような複雑なハーモニーを持つ曲も現れ始めます。ジョージ・ガーシュウィンのような作曲家は、ジャズやスウィング時代に繋がる、より洗練されたハーモニーやリズムを導入し、音楽のトレンドを変えていきました。
歌唱スタイルにも変化が訪れます。1926年頃からマイクロフォンが録音に使われるようになり、これにより、それまでの録音に適した、明るくエッジのある強い声ではなく、スムースなクルーニングスタイルが可能になりました。ビング・クロスビーやミルズ・ブラザーズのような新しい世代の歌手が登場し、旧世代の歌手たちの声は時代遅れに聞こえるようになったのです。ミルズ・ブラザーズは、当初は4人組で、その音楽には初期のカルテットのルーツが色濃く見られました。
このような音楽スタイルの変化と並行して、アメリカは「音楽に参加する国民」から「音楽を観て聴く国民」へと変わっていきました。かつて家庭や理髪店で当たり前だった、楽器を弾いたり即興で歌ったりする習慣が徐々に失われていったのです。
そして、ボードビルもまた、自らが導入したサウンド付きの映画によって致命的な打撃を受け、衰退の一途を辿ります。ライブ・エンターテイメントは、スクリーンの色彩豊かな映像に太刀打ちできませんでした。この流れの中で、アマチュアレベルでのライブ音楽作り、そして男性カルテットも数を減らしていきました。1938年までには、かつて数千あった男性カルテットは、数百にまで減少していたと記録されています。
しかし、この伝統が完全に消え去ったわけではありませんでした。メイプル・シティ・フォーのようなプロのカルテットは活動を続け、また、全国各地で密かにハーモニーを愛する人々のグループが存在していました。特にイリノイ州では、ジョン・ハンソンのような人物が率いる「ピオリア・クローズ・ハーモニー・クラブ」や「イリノイ・ハーモニー・クラブ」といった組織が活発に活動しており、毎週または隔週で集まって歌い、ウッドシェディングやマスシングを楽しんでいました。ニューヨーク市にも、元ボードビル出演者たちによるハーモニークラブがありました。
こうした戦前のハーモニークラブの活動は、来るべき大きなムーブメントへの布石となったのです。大恐慌や世界情勢の不安が広がる中で、人々はかつての参加型のエンターテイメント、古き良きハーモニーに安らぎや喜びを求めていたのかもしれません。新しい、洗練されすぎた音楽が、物足りなく感じられた部分もあったのかもしれません。
失われゆくハーモニーの伝統を「保存」しようという機運は、確実に高まっていました。そして、次回はいよいよ、その機運が爆発する瞬間、SPEBSQSA(米国バーバーショップカルテット保存促進協会)の設立について描きます! 偶然の出会いが、どのようにして全国的なムーブメントへと発展していったのか? ご期待ください!