皆さんこんにちは! バーバーショップハーモニーの魅力的な歴史を辿る旅、第3回へようこそ。
前回は、20世紀初頭にバーバーショップカルテットがいかにして「黄金期」を迎え、テクノロジーやエンターテイメントの変化の中でその存在感を高めていったかを見てきましたね。録音文化の加速、ボードビルの隆盛、ラグタイムの影響、そして「ウッドシェディング」と呼ばれる即興的なハーモニー作りが大流行した時代でした。しかし、1920年代後半から1930年代にかけて、音楽スタイルや歌唱法の変化、そして映画の台頭により、ライブ音楽、特にアマチュアレベルでの男性カルテットの活動は衰退の一途を辿ります。
さて、第3回となる今回は、この失われゆくハーモニーの伝統を「保存」しようという、運命的なムーブメントがどのように始まり、現在のバーバーショップハーモニー協会の強固な基盤が築かれていったのかを紐解いていきましょう!
※ 本記事は David Krause, David Wright 両氏によって執筆された History of Barbershop という資料を抜粋・再構成して作成されています(原資料)
1930年代、大恐慌の真っただ中、そしてヨーロッパでは戦争の足音が聞こえるという不安な時代の中で、人々は古き良き、自らが参加できるエンターテイメント、ハーモニー歌唱に安らぎを求め始めました。全国各地で、このアメリカの伝統を復活させようという機運が、同時多発的かつ独立して高まっていたのです。
そして1938年、この機運に火をつける出来事が起こります。カンザスシティのミューレバック・ホテルで、タルサの2人の男性、弁護士のオーウェン・C・キャッシュと実業家のルパート・ホールが偶然出会いました。悪天候でフライトが遅延していた二人は、キャッシュの提案でホテルのラウンジでハーモニーを歌い始め、その後さらに2人の歌える男性を見つけてホールの部屋でカルテット歌唱を楽しんだのです。
幼少期から「ウッドシェディング」の伝統に深く影響を受けていたキャッシュ(※画像)は、この出会いを機に、地元タルサで歌のクラブを組織するという長年の構想をホールに打ち明けました。二人はそのクラブを「米国バーバーショップカルテット保存普及協会(The Society for the Preservation and Propagation of Barber Shop Quartet Singing in the United States)」と名付けます。その頭文字「S.P.P.B.S.Q.S.U.S.」は、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策のあらゆる機関の頭文字を凌駕するほど長く、彼らのユーモアのセンスが光っていました。
ちなみにこの名称は後に S.P.E.B.S.Q.S.A (The Society for the Preservation and Encouragement of Barber Shop Quartet Singing in America)と改称されましたが、1942年1月の理事会において、「会員は、SPEBSQSA という頭文字を読み上げること(発音しようとすること)を控えるよう強く求める」という面白い決定がなされました。
1938年4月11日、タルサ・クラブの屋上庭園で最初の会合が開催されました。キャッシュの記憶によれば、25名の男性が集まり、"プーニー" ブレヴィンスがリード、キャッシュがバリトンを歌う形で「Down Mobile」を歌ったのが、協会後援のもと歌われた最初の曲となりました。この日の歌声が、後の大ムーブメントの第一歩となったのです。
O.C. キャッシュが協会の始まりについて回想している肉声が残っています(YouTube動画)。
初期の会合には約150人もの男性が参加するようになり、ある夜、アルヴィン・ホテルの窓から漏れる大合唱の歌声は、なんと階下の通りで交通渋滞を引き起こしました。駆けつけた記者に対し、警察官は「事故じゃない、ただのアホが上で歌ってるだけだ!」と答えたそうです。このユーモラスな出来事は全国に配信されました。
キャッシュの生まれ持った広報の才能も、この運動を大きく後押ししました。彼が「『スウィート・アデライン』の2番を知っている人は誰もいない」と公言したことは広く報じられ、WPA(公共事業促進局)にアメリカ人男性の音域を調査するための莫大な予算($9,999,999.99)を申請したり、エドワード8世やビング・クロスビーのような著名人を巻き込むようなジョークを飛ばしたりと、常にメディアの注目を集めました。
バーバーショップの爆発的な広がりは、タルサの創設者たちを驚かせました。1938年末までに全国で約8つの支部が組織されましたが、初期の連携は非常に形式的なもので、組織全体としては混乱状態でした。
このような状況の中、協会の「組織化」を求める声が高まり、1939年6月2日、3日にタルサで初の全国大会とカルテットコンテストが企画されました。キャッシュの招待状は、彼のユーモアとハーモニーへの情熱が溢れるものでした。
この第1回大会では、約50のカルテットが競い合い、イリノイ州から来たグレン・ハワードのキャピトル・シティ・フォーが準優勝しました。そして、男性用トイレに席を外していたルパート・ホールが、その間に協会の初代会長に選出されるという珍事も発生しました。キャッシュは自身の「永久第三補佐暫定副会長」という肩書きを誇りを持って保持しました。審査は地元の教育者や医師などによって行われ、バートルズビル・バーフライズが初代チャンピオンに輝きました。
1940年にはニューヨーク市で開催されたワールドフェアで第2回大会が行われ、ニューヨーク市公園局主催のカルテットコンテストが協会のコンテストを兼ねる形となりました。これは協会の広報にとって驚異的な成功を収め、夜ごと1万人以上が訪れ、60のカルテットが参加しました。ここでは、フィル・エンバリーがグレン・ハワードが紹介した「Bright Was The Night」のハーモニーを、タクシーの中でカルテットに歌ってもらいながら書き起こすというエピソードも生まれました。
しかし、この急速な成長の中、課題も浮上します。1941年のセントルイス大会では、ニューヨーク市長ラガーディアが送ろうとしたアフリカ系アメリカ人のカルテット、グランド・セントラル・レッド・キャップスの出場をキャッシュが拒否するという差別事件が発生し、アル・スミスやロバート・モーゼスといった重要人物が協会を辞任しました。アフリカ系アメリカ人がバーバーショップハーモニーの音楽的基盤の多くを築いたことを考えると、この排除は非常に皮肉な出来事であり、協会の方針が転換されるのは1963年まで待たなければなりませんでした。
1941年のセントルイス大会は、現在のコンテストの原型となる重要な変化をもたらしました。カンザスシティ支部のジョー・スターンが提案した11のガイドラインに基づいて、初めて協会内の審査員パネルが審査を行い、「バーバーショップハーモニーとブレンド(50%)、選曲と独創性(25%)、ステージ・プレゼンテーション(25%)」という採点基準が導入されました。優勝はオクラホマ・シティのコード・バスターズで、オクラホマ州のカルテットが3年連続でチャンピオンとなりました。
この時期、審査システムに最も貢献した人物の一人が、モーリス "モリー" レーガンでした。彼は優れた耳と分析的な思考を持ち、コードを時計の文字盤に見立てて名付ける独自の「時計システム」を開発しました。彼は1940年代のコンテスト・審査委員会の委員長を務め、バーバーショップの音楽を技術的に定義する上で不可欠な存在となりました。
協会の組織化も進み、1944年にはカナダに最初の支部が設立され、「国際的な組織」へと発展します。1945年には「地域予選(リージョナル)」が始まり、コンテスト規則も整備され、歌唱時間に4分から6分という制限が設けられました。
女性たちのハーモニーへの情熱も高まり、1945年にはタルサでエドナ・メイ・アンダーソンを中心に、協会の補助組織として「Sweet Adelines」が設立されました。今日では世界最大の女性歌唱団体へと成長しています。
この時期、各地域で強力なチャプターが誕生しました。特に、ジョン・ハンソンが率いるイリノイ州のコーンベルト・コーラスは、325名もの大編成で毎年素晴らしいショーを披露し、その活躍はシカゴ#1チャプターのような、初期のバーバーショップ活動の「温床」となった場所にも広がり、100名を超えるコーラスが結成され、熱狂的な会合が毎晩のように繰り広げられました。
1947年、協会のテーマソングを公募する中で、ビル・ディーケマ作曲の「Keep America Singing」が選ばれ、大ヒットとなりました。これは後に「Keep the Whole World Singing」と歌詞が変更され、現在の協会のテーマソングとなっています。1948年には、協会は40州、カナダ、アラスカ、ハワイ、グアムに480もの支部を持つまでに成長しました。
1950年には、オマハでの国際大会でバッファロー・ビルズがチャンピオンに輝き、彼らは瞬く間に国民的な伝説となりました。フィル・エンバリーがコーチとアレンジの多くを手がけた彼らのサウンドは、古いスタイルと新しい響きを繋ぐ「架け橋」と評されました。そして、1957年には、彼らがブロードウェイミュージカル「ミュージック・マン」に出演することになり、バーバーショップハーモニーが広く世に知られるきっかけを作りました。彼らの活動は、728回のコンサート、1510回の舞台公演、216回のテレビ出演など、前例のないものでした。
1951年半ばには、審査システムに大きな改訂が加えられ、ハーモニー精度、バランスとブレンド、声の表現、ステージ・プレゼンス、楽曲アレンジの5つのカテゴリーがそれぞれ20%の均等な配点で評価されるという、現在に繋がるシステムが確立されました。
また、この頃から、バド・アーバーグのような音楽教育者が協会の教育プログラムの基礎を築き始めます。彼が提唱した「バーバーショップ・クラフト」は、コード構造や歌唱技術を楽しく教えるもので、後のハーモニー・エデュケーション・プログラム(HEP)、そして現在のハーモニー・カレッジへと発展していきます。1949年には、フランク・ソーンやジョン・ハンソンがコーラスディレクター向けの指導クラスを開催するなど、指導者育成の動きも活発になりました。
1938年の偶然の出会いから始まったバーバーショップハーモニーの保存運動は、熱狂的な人々、ユニークな広報活動、そして初期の試行錯誤を経て、わずか十数年で強固な組織へと成長していきました。コンテストの開催、審査基準の整備、そして教育プログラムの萌芽は、この芸術形式が未来へと受け継がれていくための重要な基盤を築いたのです。
次回、最終回となる第4回では、1950年代以降のバーバーショップハーモニーが、どのように音楽教育とコーチングを深化させ、スタイルの変遷を遂げながら国際的な広がりを見せていくのかを探ります。