バーバーショップハーモニー、この魅力的な音楽スタイルがどのように生まれ、育まれてきたのか。その道のりは想像以上に長く、様々な文化が複雑に絡み合っています。
全4回でお届けするこの「バーバーショップハーモニー物語」では、その遠い源流から現代に至るまでのエキサイティングな歴史を一緒に旅してみましょう。第1回となる今回は、バーバーショップハーモニーという名前がつく遥か以前、その音楽の種が蒔かれ、文化という土壌が豊かになっていった「前史」にスポットライトを当てます。
※ 本記事は David Krause, David Wright 両氏によって執筆された History of Barbershop という資料を抜粋・再構成して作成されています(原資料)
私たちが声を重ねるとき、それは単に複数の音が鳴っているだけではありません。そこには「倍音(ばいおん)」や「協和音(きょうわおん)」といった、音が重なったときに「お、なんだか心地よいぞ!」と感じる魔法が隠されています。
今から約2500年も昔、古代ギリシャの数学者ピタゴラスは、音の高さの比率がシンプルな整数で表せるときに、音が美しく調和することを発見しました。例えば、ある音とその1オクターブ高い音は、高さの比率が「2:1」。これは最も基本的なハモリで、まるで同じ音が違う高さで鳴っているように聴こえます。次に気持ちよく調和するのは、高さの比率が「3:2」となる「完全5度」という音の組み合わせです。
11世紀から12世紀頃、ヨーロッパの修道院では、修道士たちがラテン語の賛美歌をみんなで同じメロディで歌っていました(これをユニゾンと言います)。しかし、彼らは自然とオクターブや完全5度といった音程でハモり始めたのです。これは、彼らが無意識のうちに、音に含まれる倍音を感じ取っていたからかもしれません。アカペラで、同じ母音を丁寧に合わせることで、ハーモニーを豊かに「響かせる」ことを大切にしていたのです。完全五度はハーモ ニーの基本で、本能的な喜びを感じる音ですから、人は自然とその気持ちよさに身を委ねていったと言えるかもしれません。バーバーショップではこの身体で感じるハモりの喜びをよく「コードをロックして鳴り響かせる(Lock and Ring!)」と表現しています。
最初のうち、教会音楽で許されていたハモリはオクターブと5度だけでしたが、次第に「3度」という音程も使われるようになり、長三和音(明るい響きのドミソのような和音)や短三和音(少し切ない響きのド・ミ♭・ソのような和音)といった、3つの音で構成される和音(トライアド)が誕生しました。
バーバーショップハーモニーを「これぞバーバーショップ!」たらしめている特徴的な響き、それが「ドミナントセブンスコード」です。しばしば「バーバーショップセブンス」とも呼ばれる、魔法のスパイスのようなコードです。
これは、基本的に明るい響きの長三和音に、もう一つ、ちょっと特別な「7番目の音のフラット(少し低い7番目の音)」を加えた4つの音からなるコードです。この音が加わることで、なんとも言えない緊張感と、次に進みたくなるようなワクワク感が生まれます。
ヨーロッパの作曲家たちがこのドミナントセブンスコードを使い始めたのは、16世紀の終わりから17世紀の初め頃。最初は、前のコードからの流れで偶然生まれた不協和音のような扱いでしたが、次第に「次はここに進みたい!」という強い方向性を持つようになります。特に、あるコード(例えばドミナントセブンス)から、その4度上のコード(例えばトニック)へと解決する進行(これをV7-I 進行、ゴ・ナナ・イチ進行などと呼びます)は、物語の「起承転結」でいう「転」から「結」へ進むような、スッキリとした解決感を聴く人に与えます。
18世紀から19世紀にかけて、このコードはポピュラーな存在となり、特に音階の5番目の音(ドレミファソの「ソ」)の上によく置かれました。ベートーヴェンの交響曲第1番やモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークといった有名なクラシック曲の一節にも、メロディがこのドミナントセブンスコードの響きを暗示している例があるそうです。19世紀までには、現在のバーバーショップで使われるほとんどのコードやハーモニーの進み方が確立され、音楽的な下地はほぼ整っていたと言えるでしょう。このドミナントセブンスコードとそれに続く解決の進行はバーバーショップの土台となる非常に重要な要素でした。
さて、ハーモニーの音楽的な進化と並行して、今度は「バーバーショップ」という言葉の起源にも関わる、理髪店での歌の文化に目を向けてみましょう。
16世紀から18世紀初頭にかけてのイングランドでは、理髪店と音楽が深く結びついていたという記録が残っています。有名な日記作家サミュエル・ピープスや、『失楽園』で知られる詩人ジョン・ミルトンの記述によると、当時の理髪店の壁には、お客さんが待ち時間に弾けるようにリュート(昔のギターのような楽器)やシターン(これもギターの仲間)が掛けられていたそうです。理髪師自身も楽器の演奏に長けていて、中には音楽家として評判になる人もいたとか。ピープスは「理髪店の音楽」という言葉も残していますが、それが具体的にどんなジャンルの音楽だったのか、今となってははっきりとは分かっていません。
この「理髪店で音楽」という伝統は、理髪師の仕事が抜歯や簡単な外科処置も含む、より専門的なものになるにつれてイングランドでは廃れていきました。しかし、この「古き良き習慣」は、大西洋を渡り、アメリカ大陸へと持ち込まれます。特に、宗教的な厳格さが比較的緩やかだった南部で、理髪師たちが即興で歌を歌う伝統を引き継いだと考えられています。
アメリカにおける四部合唱、特に各パートがメロディを邪魔せず、美しく調和する試みは、その正確な始まりを特定するのが難しい、フォークアート(民衆芸術)のような性質を持っています。しかし、1800年代半ばより前には、カルテット(四重奏または四重唱)で歌う文化が存在していたことは確かです。
例えば、1843年にはニューイングランド地方で、ハッチンソン・ファミリーという家族カルテットが人気を博し、奴隷制度反対や禁酒運動といった社会的な集会で歌声を披露していました。彼らに続いて、男性だけのディアボーン・カルテットや、1855年に歌集を出版したコンチネンタル・ヴォーカリストのようなプロのカルテットも登場し、1850年代にはカルテット歌唱への関心が高まっていたことがうかがえます。
この時代のアメリカ音楽、とりわけバーバーショップハーモニーの発展を語る上で欠かせないのが、アフリカ系アメリカ人の大きな影響です。彼らは、楽譜に頼らずその場でハーモニーを生み出す即興の才能に長けており、後のスピリチュアル、ラグタイム、ジャズといったアメリカ独自の音楽ジャンルに計り知れない貢献をしました。南部のプランテーション(大規模農園)では、奴隷として働かされていた人々のソウルフルな歌声や、その場で音楽を創り出す才能が注目され、模倣されることもありました。
1800年代初頭には、こうしたアフリカ系アメリカ人の歌や踊りにインスピレーションを得て、「ミンストレル・ショー」というエンターテイメントが生まれます。これは、後のボードビル(寄せ芝居)やブロードウェイミュージカル、そしてバーバーショップカルテットの誕生にも繋がっていく重要な流れです。
ミンストレル・ショーは1840年代に始まり、即興の技術をさらに発展させました。ショーには1900年よりずっと前から男性カルテットが登場していたと言われています。このショーでは、顔を黒く塗った白人男性が、アフリカ系アメリカ人の歌や踊りをコミカルに(時には偏見を込めて)演じていましたが、1850年から1870年にかけて全盛期を迎え、大衆音楽に大きな影響を与えました。
奴隷解放と結びつく「自由と独立」の精神は、音楽の世界では「即興」という形で花開きました。ヨーロッパの伝統的で厳格な音楽教育の枠から離れ、アフリカ系アメリカ人の解放と共に進んだ音楽的な自由化は、スピリチュアル、ラグタイム、バーバーショップ、そして後のジャズ、カントリー、ゴスペルといった、即興性を豊かに含む多様なアメリカ音楽を生み出す原動力となったのです。
そして、最初の「本物の」バーバーショップカルテットは、アフリカ系アメリカ人の男性4人組だった可能性が高いです。1873年にはアフリカ系アメリカ人の男性カルテットが存在した記録があり、1880年代にはフロリダ州ジャクソンビルに、歌う理髪師たちからなるアフリカ系アメリカ人カルテットがいたことが確実視されています。これらが、記録に残る最初のアマチュアのカルテットと言えるでしょう。彼らのレパートリーには、スピリチュアルやプランテーションソング(農園で歌われた歌)、そして当時の流行歌などが含まれていたと考えられます。
アメリカのポピュラー音楽もまた、バーバーショップハーモニーが花開くための土壌を整えていきました。ステファン・フォスターは、アメリカ初期の偉大なソングライターの一人で、「故郷の人々(スワニー河)」や「ケンタッキーの我が家」といった、今も歌い継がれる名曲を生み出しました。彼はアフリカ系アメリカ人の音楽やミンストレル・ショーの音楽から影響を受けており、その親しみやすいメロディは後の世代の作曲家たちにも大きな影響を与えました。
1800年代初頭の曲は、ハーモニーをつけるのが難しかったり、つけてもあまり面白くなかったりすることがありました。しかし、1800年代後半から1900年頃にかけて、即興でハーモニーをつけやすいメロディを持つ曲が増えていきます。特に19世紀末の曲は、耳で聴いて即興でハモる(これをバーバーショッパーは「ウッドシェディング」と呼んだりします)のにとても適していました。
これらの曲の多くに見られる特徴として、メロディが「ド(Do)」の音で終わるよりも、「ソ(Sol)」の音で終わるものが増えたことが挙げられます。また、1890年代の曲は、基本的なシンプルさの中に、メロディに「ゆとり(roominess)」がある、という特徴を持っていました。これは、全音符や二分音符といった長い音符が多く使われ、リードシンガーがメロディの音を伸ばしている間に、他のハーモニーパートがメロディの断片を繰り返したり、ハーモニーを滑らかに動かしたり(後にバーバーショッパーが「スワイプ」と呼ぶテクニック)する時間的な余裕を与えてくれたのです。
さらに、これらの曲は、メロディから自然に連想されるコードの種類も豊かになりました。1800年代半ばの多くの曲は、主に3種類程度のコードパターン(I、IV、V。時々IIも)で構成されていましたが、世紀の変わり目頃の曲は、これらに加えて少なくとも一つか二つ(VI、IIIなど)のコードが使われるようになり、より色彩豊かなハーモニーが可能になりました。
ところで、「バーバーショップ」という言葉が、ハーモニーの特定のスタイルを指す用語として初めて印刷物で確認できるのは、意外にもそれほど古くありません。1900年に、アフリカ系アメリカ人の音楽評論家トム・ザ・タトラーが発表した、いささか批判的なコラムの中でした。彼はバーバーショップハーモニーを「音楽のスラング(俗語)」と呼び、音楽の厳格なルールを無視し、メロディを勝手に変えて「マイナー」コードや減七の和音(ディミニッシュトセブンスコード、少し不安げで刺激的な響きのコード)に合わせてしまうものだ、と手厳しく評したのです。この皮肉のこもった言及が、私たちが今日知るこの音楽スタイルの名称として、記録に残る最初の使用例となったのでした。
また、1876年にはトーマス・エジソンが蓄音機を発明し、その後映画カメラ(キネトグラフ)も発明します。これらの技術革新は言うまでもなく、後の音楽の聴かれ方や歌われ方に大きな影響を与えることになります。
バーバーショップハーモニーが花開く前の「前史」は、古代ギリシャからのハーモニーへの探求心、イングランドの理髪店での気楽な音楽文化、アメリカ南部で育まれた即興で歌う伝統、そしてミンストレル・ショーやアフリカ系アメリカ人の素晴らしい音楽的才能、さらには時代と共にハーモニーに適するように変化していったポピュラー音楽の進化…これら実に多様な要素が複雑に絡み合い、豊かな土壌を育んでいった時代でした。
まだ「バーバーショップ」という名前が定着しておらず、その音楽スタイルも自然発生的で、まさに「生まれるべくして生まれた」ものでしたが、後の黄金時代を迎えるための大切な種は、確かにここで蒔かれていたのです。
次回、第2回では、いよいよ20世紀初頭に突入します!アマチュアとプロフェッショナルの両面でバーバーショップカルテットがどのように花開き、成長していったのか?そして、レコードという新しいメディアや、ボードビルの大衆演芸とどのように関わっていったのか?エキサイティングな展開にご期待ください!